「与える・与えられる」という言葉の意味を考える

・長年の疑問「こども食堂って、実のところ行けない子供達(と大人)がたくさんいるのではないか」

夫が仕事中通りがかりに目にする「こども食堂」はいつも長蛇の列になっているそうだ。
メディアでもその必要性や運営に携わっている人たちの懸命な活動がよく取り上げられている。

私は、こども食堂でおいしい食事を頬張ったり、宿題を頑張っている姿に「よかった~」と思う一方で、
「支援が必要な子供達(と大人)は残らず来れているのだろうか?来れない子供達(と大人)がいるのでは?だとしたらどうしたら来てもらえるのだろうか。運営方法は?経営的にどのように成立しているのだろうか」
なんて色々と考えているだけで結局自分では「なにもしていない」しょうもない人間なのだが、
先日、これらの疑問への解決のヒントになる新聞記事を見つけて「なるほどなぁ」となっている。

自力で手に入れた権利で食事や買い物をする場所「まほうのだがしや チロル堂」

出典:文化欄「チロル堂」.日本経済新聞. 2023-6-2 .朝刊.p.28

伊藤亜紗氏の「チロル堂」の記事によれば

「農水省の調査でも、4割以上のこども食堂が、運営上の課題として、『来てほしい家庭の子供や親に来てもらうことが難しい』をあげている。」

やっぱりそうだったんだ。

そんな中、記事で紹介されている「まほうのだがしや チロル堂」には子ども達が集まる魔法の仕掛けがある。
子供達が持ってきた100円をカプセル自販機(ガチャガチャ)に入れ、出てきたお店の通貨「チロル札」で買い物をする。
1チロル札で100円分の買い物ができるが、時によっては1枚以上の札がでてくる仕組みになっていて、「与えられる」という後ろめたさではなく「自力で(運として)手に入れた権利」で食事や買い物をすることができる。

運営者の吉田田タカシ(ヨシダダ タカシ)さんには、かねてこども食堂への違和感があったという。
「知らないおばさんに『大変だったね』とか話しかけられるぐらいならひとりで食べたい。自分が小学生だったら行けなかっただろう。」と語っているそうだ。

そうなの。困っていて、本当に困っているけれど、知らない人たちのいる場所で自分から「ください」と言うのは簡単ではない。
人と交わるのが苦手だったり、引っ込み思案の子だっているだろう。
「施しを受ける」と感じ、みじめな気持ちになる人もいるかもしれない。
メディアはこども食堂で生き生きとしている子供たちをよく取り上げているけれど、反面、その場に行けない子供達や親も案外多いのではないだろうか。

「与える」という言葉にいつも感じる違和感の理由

話は変わるが、私は「与える」という言葉になんとなく違和感を感じてしまう。
例えば、スポーツ選手が勝利者インタビューで「皆さんに元気を与えられたらうれしい」と語ったり、他にも様々な人が「この活動でみなさんに元気を与えたい」等と語る場面を目にする。
私にはこの「与える」という言葉が強制的、上から目線に聴こえてしまう。もちろん発言している人たちにそのような気持ちは全くないのだが。
与える」という言葉をわざわざそういうふうに考えるからそんな思考になっちゃうんだよ。とも思うのだけど。

伊藤亜紗氏は、
「利他的な行為はどうしても『与える側』と『与えられる側』という二つの立場を際立たせてしまうそうだ。与える方は善意のつもりでやっていても、与えられた側は『かわいそうな人』というレッテルを貼られたように感じ、みじめな気分になるかもしれない。」と書いている。

そうか。そういうことなのか。

いつだったか「この勝利を知ることで皆さんが『元気に』なってくれたらうれしい」と発言した人がいた。
将棋の棋士だったか、はっきりと思い出せないので名前を出すのは控えるが、そうそう、こんな風に言ってもらえると私みたいな人間は素直に元気になる。